推し事備忘録

日々の色々なことを書き留めていくだけ

正解の道を歩いていきたい

この世には正解があるのは数学とかの話であって、かなり限られている。

だが、その上で言いたい。正解を選びたい。

なぜ、こんなことを思うのかと言うと、最近感想を言う機会が増えたな~と思ったからだ。

 

感想と正解?ん?自分が感じたことに正解も間違いもないんじゃないか?そう思うのが普通だろう。というか普通だ。

つまるところ、自己肯定感が極端に低いのだと思う。

自分の感想、解釈、狙いを言って、否定されたくない。

そして、否定されないためにどうするのか。

意見を言わないこと。もしくは、演者・運営の想いを当てる…つまり正解を言うこと。その2つだろう。

否定されないために、正解を言いたい。正解を分かりたい。

だからこそ、ライブ後の感想のエゴサなどはしない。正解があふれていて、これを感じ取れなかった、分からなかった自分は何かが欠けている人間なんじゃないか?と言われているかのようだから。

 

別に感じたことをそのまま言うのは嫌いではない。別に否定されたところで「ああ、あなたはそうなんですね。でも、私はこう感じましたよ」ってだけである(でなければ、○○○の生首を持つ○○○とかいう幻想を共有しない)。

 

プライドは高く、自分を守りたい完璧主義者。だけど、同時に自己肯定感が低く、自分を一番攻撃しているのは結局自分なのだ。

自分に自信を持てるようになりたい。だが、それを願う自分は常に卑屈な自分に笑われている。

 

 

 

P.S.これから関わる人もたくさんいると思うが、上手く感想を言えない時はそうなのかもな~くらいで頭の片隅に置いといてくれると助かる。

オタクになった理由

最近スマブラのオフ大会に行くようにしているし、小説と言うにはおこがましいが、また書き始めた。

なぜかというと、Liella!に心動かされたからだ。

 

私と話してる人で気づいている人は気づいていると思うが、私は先天性のオタクではなく、学生時代などは正直オタクではなかった。強いて言えばライトなオタク?という感じだった。『涼宮ハルヒの憂鬱』と『バカとテストと召喚獣』と『とらドラ』と『化物語』を書籍で読んでたくらいだ。アニメ自体ほぼほぼ見ていなかった。涼宮ハルヒの憂鬱を全編見たこともなかったと思う。

その分何をしていたかと言うと、1人で黙々とCPU相手にスマブラXもしくはマリオカートWiiをやっていた(全然友達ともやっていたし、モンハンやったり、野山を駆け回ったりもしていた)。

そんなこんなでひょんなことから東京に就職することとなった。

私は最初は物欲もなく、ぶっちゃけ金がめっちゃあった。給与もほぼほぼ残っており、一生YouTubeを見て一日を過ごしていた。だが、あるものと出会い、人生が変わった。

ラブライブ!との出会いである。そこから全てが変わり、オタクの道に足を踏み入れた。今つながりのある人全員、ラブライブ!がなかったら、つながっていなかった人たちである。

そう、ここから後天的オタクとしての人生が始まった。

 

 

 

話は変わるが、私には夢があった。

作家…小説家になりたかった。クリエイティブな仕事をしてみたかった。

子供の頃は妄想だけだった。

中学生になって、漫画の達人だったかを買って、練習をした。

高校生になって、小説家になろうにオリジナル小説を投稿していた。

でも、そんな馬鹿みたいなことを続ける意味がないと思い、専門学校に入った辺りで辞めた。

 

だけど、形は違ってもやっぱり頑張りたいなと思った。

μ'sが夢の熱さを思い出させてくれた。Aqoursが夢を後押ししてくれた。とある出来事で筆を折り、潰れて停滞した俺をLiella!が引っ張り上げてくれた。

今雑に、それでも少しずつまた書き始めたのはそういうことだ。

 

また、話は少し変わるが、スマブラについても話すと、私は負けず嫌いである。そして、歪んでいるため、『負けない』ために『戦わない』ことを選んでいた。

でも、それじゃだめだった。分かっていた。目をそらしていた。強い人も同じだけかそれ以上に悩んでいる。迷っている。こんなチンケなところで何を足踏みしているんだろう。果てしない階段を見上げて、なぜその場で諦めたんだろう。

やっぱり努力とか考えるとか嫌いだ。でもどうしようもなく、魅了される。憧れる。あの舞台に立ってみたい。

その想いでまた歩き始めた。

 

自分は界隈の中では、年を重ねてきた方になってきたのではないかと思う。スマブラでも創作でも自分より年下にすごいやつがいっぱいいる。それでも進むことにした。

やらない理由を考えるのも、できない理由を探すのも、もう辞めた。

大げさに言うと、夢であり憧れだから。

ちゃっちく言うと、やりたいことだから。

 

正直、私の夢は叶わないと思っている。

だけど、それでも彼女たちが教えてくれたことを俺は追っていきたい。

Liella!の5thライブで思ったこと(主に原理主義者について)

ラブライブ!スーパースター!! Liella! 5th LoveLive! 〜Twinkle Triangle〜に参加して思ったこと。

 

やっぱLiella!は最高だな!!ということである

 

そんな風に思っている中、Twitterで一つ面白いツイートを見かけた。

なんとなく言うと、「5人曲を11人でやるな」と俗に言うLiella!は5人原理主義者の言っていることだ。

うん。分かる!!

 

Liella!は5人だし、ラブライブ!はμ'sだよな!!そうだよな!!俺も原理主義者なんだよ!!そうなんだよ!!余計なものはいらないんだよ!!

 

と思っている。

だが、それと同時にこんなくだらないことを言ってる俺をぶっ飛ばしてくれと思っている。

正直に言って、過去の良かった物を反芻しているのは心地良いし、外れもない。

だが、そこに進化はあるのだろうか?とも思う。

俺は原理主義者である。原理主義者となった理由はたくさんあると思う。だが、それはあの時あの瞬間だけの大切なものではないのだろうか?

大切なものを皆に見せびらかすのではなく、たまに記憶の箱から取り出して愛でてあげることが大切だと思う。

 

Liella!の話を続けると(これは個人的に浅いだけであれば申し訳ないが)、Liella!は5人曲を11人曲としてやっているが、その歌っているパートに関して、違和感はないのではないだろうか?

私は個人的には違和感がないどころかお前が歌うべきだろ!!と思うパートが多々あり、元々11人前提の曲として作られていたのではないか?と思えるくらい自然だと感じている。

キャスト陣はどうか分からないが、運営は狙っていたのではないか?と思っている。

 

また、今回の5thライブでもかなり私が評価したいのは、Tiny Starsだ。

Tiny StarsはLiella!の曲ではなく、クーカーの曲である。そして、あの2人のドラマがあってこその曲である。つまり、11人で歌ってはいけない曲なのである(詳細は唐可可についてのブログに詳しく書いてある)。

今回の5thライブでは、その不可侵領域を護った上でのライブであった。

こんなの好きにならないでいられるか!?

 

私は原理主義者である。

だが、それと同時に原理主義者なんてくだらねぇ!!って言ってくれる運営をこれからも信頼(信頼と書いて脅迫と読む)していこうと思う。

 

Liella!ちゃんを信じろ!!

Liella!ちゃんは最高だ!!

俺はこれからもLiella!ちゃんを推し続けようと思う。

 

短いと思うが、以上だ!!

ラブライブ!サンシャイン!!の第1期11話友情ヨーソローとかいうようまり回ではない回について

ラブライブ!サンシャイン!!という作品を知っているだろうか?

私は一時期月に一本コンスタントにラブライブ!サンシャイン!!のSSをあげていた。嘘である。月に一本を目標にしていたが、普通に筆が遅いので間に合っていなかった。

そんな私が書いた作品は圧倒的に渡辺曜小原鞠莉の二人の関係性に注目して書いていたカップリング。通称ようまりである。

今回はそのようまりの中でも友情ヨーソローについて語っていきたいと思う。

 

ようまりはラブライブ!サンシャイン!!の第1期11話の友情ヨーソローで爆発的人気を得たカップリングである。嘘である。友情ヨーソローはようまり回であって、ようまり回ではない。

 

ここから先は友情ヨーソローまでを視聴した人のみが見てほしい。

見ていない人間は本当にブラウザバックをして、ほしい。そして一度見たことがある人はこの話を見た後にもう一度見直してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

良いだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

では、話始める。

 

友情ヨーソローはどういう話かと言うと、一言でいえば、渡辺曜の独り相撲の話である。

友情ヨーソローは、渡辺曜高海千歌に距離感を感じており、それを解消する話である。

これは、渡辺曜の妄想の中では、渡辺曜小原鞠莉のアドバイス通り”本音”をぶつけているが、高海千歌は意味が分からないという反応をする。これは、高海千歌渡辺曜と本音でぶつかることは願っていない。ぶつかったところで意味がないという表れである。

渡辺曜は勝手に高海千歌と距離感を感じているが、高海千歌は昔から何も変わっていないのだ。それを高海千歌が無意識的に解消する話が今回の話の本筋である。

さて、その話の中でなぜようまりと言われているのか。それは、びゅうおでの渡辺曜小原鞠莉の二人での嫉妬ファイヤ~などの名言を生んだ例の展望台での話であるからである。

曜と千歌のギクシャク(曜が一方的に感じているもの)に気づいた小原鞠莉が曜にアドバイスをするシーン。いやぁ…あそこは良いものですよ…。その前に小原鞠莉が曜の胸を揉むシーンも渡辺曜の発育の良さと一本背負いする渡辺曜の超人さを改めてアピールするシーンとなっています。

 

さてさて、私は友情ヨーソローはようまりの話ではなく、渡辺曜の独り相撲の話であると、最初に言っていたが、どういう事かということについて、説明する。

まず、話の中で出ている通り、高海千歌渡辺曜に対してわだかまりはなにも感じていない。それに対して、小原鞠莉渡辺曜にしたアドバイスは本音でぶつかった方が良いというアドバイスだが、そのアドバイスの結果、童貞ヨーソローと言われるあの妄想シーンになる。

そのアドバイスをした理由は小原鞠莉の経験則であるが、その経験則によるアドバイスはあっていたのだろうか?小原鞠莉の三年生組の問題と渡辺曜の二年生組の問題は全く違う話である。三年生組の問題はお互いに思い合っていたが、それが故にすれ違っていた。二年生組の問題は、渡辺曜が一人で勘違いをしている…距離を感じている問題。三年生組の問題は、お互いに本音を話し合うことで解決する問題だが、二年生組の問題は本音で話し合っても解決しない問題である(妄想シーンで分かる通り、高海千歌には通じない話)。

つまり、小原鞠莉は二年生組の問題をはき違えてしまったため、結果的に渡辺曜にした「本音でぶつかるべき」というアドバイスは間違っていたということである。

 

なので、私は友情ヨーソローをようまり回でない渡辺曜の独り相撲回であると言っている(エンディングが曜千歌でも曜鞠莉でもなく、曜ソロであることからも分かる)。

さて、ではあるが、私はこの話が大好きである。

なぜなら、この話にようまりの関係性及び私のようまりの好きな要素が詰まっているからである。

 

私の中のようまりを現す言葉が二つある。

一つは『不器用×不器用』である。某超大手カップリングのにこまきというカップリングがあるが、それはツンデレ×ツンデレとかいう魅力的なカップリングである。そのような形でようまりをあらわすとすればで考えたのは、不器用×不器用である。二人とも優秀な人間であり、それが故に周りの人との関係性などが上手くいかず、また人に頼ると言うことも下手なのである。

その二人がお互いとの接点をきっかけにまた変わっていく。素晴らしきつながりだと思う。

 

もう一つは小原鞠莉渡辺曜を救えないが、確かに渡辺曜小原鞠莉に救われている』である。

先述のとおり、小原鞠莉のアドバイスは的外れであり、アドバイスの結果、渡辺曜を逆に惑わせることとなった。小原鞠莉渡辺曜を助けられたと思っているが、結果的には渡辺曜のことを何にも救えていないのだ。

だが、あの時間は確かに渡辺曜の心を救ってくれているのだ。渡辺曜を含め、登場人物達の人生は続いてゆく。渡辺曜がこれからまた思い悩む時もあると思う。だが、展望台で過ごしたあの時間は渡辺曜の心を救い続けてくれると思う。

このようまりの関係性を象徴する友情ヨーソローはようまり回であろう。

 

 

以上、ようまり回でなくて、ようまり回である友情ヨーソローの話だった。

ぜひ、もう一度友情ヨーソローを見返して、二人の関係性を改めてみんな噛みしめてほしい。

以上だ。

唐可可について

前回の記事からまた時間が空きました。

やらなくても良いならやらない。やらなければならないことは手短に。某アニメの省エネ思考な主人公の好きな言葉です。

このブログの更新はやらなければならないことではないです。ですが、やりたいことではあるため、今後もちまちま書いていくようにします。

 

今回は前回に引き続き、ラブライブ!スーパースター!!の中でも更に唐可可というキャラについて書いていきます。

誰を書いていこうか、はたまた曲について書こうか迷いながらも無難なところに落ち着いた感じですね。

前回の澁谷かのんのブログでもある程度書いていましたが、シリーズがシリーズなら主人公でもおかしくなったキャラクターだと思います。

だったら、なぜ主人公ではなかったのか?スクールアイドルオタクだから?それとも、日本人でないから?それとも何か他の要因がある?

今の私の中での(ぶっちゃけご都合主義だと思ってますが、それ以外での)結論としては、『唐可可は当初はダブル主人公だったが、最終的には澁谷かのんにフューチャーすることとなった』だと思います。

ええ、突拍子もない話ですし、恐らくその内書き換えてると思うくらいの話です。ですが、この酒が入っている夜中に今確かに思ってる内容です。

私の中で唐可可について書くと考えた時点で一番書きたいと思ったのは、第一期の1~3話のところの話であり、そこがダブル主人公としての構成だったという風に考えた話のきっかけです。

1~3話、つまり澁谷かのんが歌えるのか歌えないのか不安定な中で、二人でTiny Starsを完成させるところです。

唐可可は常に結果を出せないなら………Tiny Starsを完成させることが出来なかったら、上海に帰らなくてはいけないというプレッシャーの中にいました。

そんな中なら、スクールアイドルを続けるために普通であれば、歌える人や踊れる人と続けるべきであるが、彼女は澁谷かのんに最後までこだわっていました。

なぜなら、唐可可にとって、やりたいことに終わりなんてなく諦めるなんて選択肢がないからです。

彼女にとってのやりたいこととは、素晴らしい声を持ち、歌が好きなのに素直になれない澁谷かのんとアイドルをすることであり、一緒にステージに立つことである。澁谷かのんの存在を知ってから、澁谷かのんとアイドルをすることが目標になった。だから、自分一人で歌うことになったとしても、二人でステージに立つことにこだわった。

 

この時のステージには二つのプレッシャーがあって、唐可可の夢を背負った澁谷かのんと澁谷かのんの歌が好きだという気持ちを背負った唐可可。

唐可可は、ここで失敗したら自身の夢ではなく、澁谷かのんがもう歌えなくなると感じていたのではないか?だからこそ、可可も震えが止まらなくなってしまった。

お互いがお互いのことを背負う…それを象徴するかのように背中合わせの二人から始まる曲。今は小さい星だけど、この二人でならいつかはスーパースターになる。そんな気持ちが籠もっている(であろう)Tiny Stars。

この曲を好きにならない人がいるのだろうか?いや、いないだろう。

 

5thライブや上海のライブ(だったと思う)でも、5人でも9人でも11人でもなく、2人でしか歌ってはいけない曲であり、ライブでもそれを守り二人で歌っているのは解釈一致である(勘違いがあれば申し訳ない)。

この曲だけは、2人で歌う以外は有り得ないのである。

 

唐可可がダブル主人公な件についてと言いつつ、Tiny Starsを早口で語ってしまったが、改めてここまでの背景がある唐可可と澁谷かのんで構成されている1~3話についてはダブル主人公としての構成。その後、澁谷かのんのソロ主人公へシフトチェンジしている。というのが結論になる(なんでその後澁谷かのんにシフトチェンジしてるんだ!結局主人公じゃないのではないかという意見が聞こえるが、その後澁谷かのんとダブル主人公構成されている話がないことと唐可可はここで私を叶える物語をある種達成しているというところでお茶を濁させていただく)。

 

 

ここからは別の話となるが、仮にここでTiny Starsが失敗していたとしたら、どうなっていたのだろうということを妄想する。

失敗していたとすれば、某葉月花のようにやり切れたのであれば満足というパターンになれていなかったと思う。

失敗をしていたとすれば、澁谷かのんは一生歌えなくなるくらいのトラウマを抱えることとなり、嵐千砂都の協力もここまでとなってしまい、ライブが成功しなかったことにより、平安名すみれも仲間にならない。そして、葉月恋からスクールアイドルを禁止されることとなり、唐可可は一人で上海に帰ることとなる。それが、普通の考えであるが、本当にそうなるのか?ということである。

 

私が一つ疑問提起したいこととしては、唐可可はスクールアイドルをやるために日本に来たが、それを家族が最初から知っていたのだろうか?ということだ。唐可可の家計は勉強熱心な家庭であり、勉強していなかったから体力がないという設定がある。そんな家庭がスクールアイドルをやるという目的(金銭的な面でもかなり負担がでかいこともある)で日本に行くことを本当に許すのだろうか?

私が思っているのは、唐可可は勉強を理由に日本に来て、隠れてスクールアイドルをするという目的で日本に来た。その後、ライブを続けていくにつれて、両親にバレて、姉にかばわれながら、日本でのスクールアイドルを続けたのではないか?と思っている(この内容は本当にどうなのかで描写があるか分かんない…思い出せない…酔っぱらないながら、書くものじゃない…)。

つまり、私はクーカーの時点で唐可可は失敗したとしても、上海に帰る必要がないのではないか?と考えている。また、唐可可の特徴の一つに手段を選ばずに目標を達成しようとする行動力(あの退学しようとしたところとか)があり、その力を持つ可可が澁谷かのんとのアイドル活動を諦めることがあるのだろうか?

結論として、私は失敗したとしても、最終的には二人でのアイドル活動は続けていたと思っている。

可可は貧弱な体力を補って余りあるほどの情熱があり、それがあるのであれば、目標を果たさずに諦めることなんて決してないのだろう。

 

 

話が色々脱線しているが、何の話だったか…。

とりあえず言いたいこととしては、唐可可は行動力のある愛が強いキャラである。またそれと同時に思いやりもあり、登場人物に対しての気配りもできているキャラクターである(すみれに対して当たりが強いという話はあるが、すみれは自らスクールアイドルをやりたいと言ってきた子であるのに、実はスクールアイドルに興味がないということを知り、裏切られたという気持ちがでかいからこそのやつだと思います)。

色々となぜこの発言をしたのか等考えながら、注目して見たりするのであれば、唐可可というキャラは非常に面白いので、おすすめである。ということでとりあえず終話する。

ラブライブ!スーパースター!!という存在(&澁谷かのん)について

前回の記事から三年以上経過している。本当はゲームについて、特にその頃躍起になってプレイしていたマリオカートについて書こうと思っていたが、結局途中で断念した。

やはり、書こうと思う衝動は大切なのだと改めて実感する。

 

という訳で何を書くかと言えば、タイトルの通りラブライブ!スーパースター!!についてである。

ラブライブ!スーパースター!!という作品についてだが、誰もが知るスクールアイドルの物語、ラブライブ!シリーズの4作品目である(ちなみに個人的に4という数字は嫌いであり、4に因んだものは好きにならないようになろうとする傾向がある)。

私は元々ラブライブ!シリーズがとても好きであるが、シリーズを追い始めたのは、初代μ'sの劇場版を見てからだ。その後、ラブライブ!ラブライブ!サンシャイン!!にハマっていった。

そんな中、今回の4作品目、ラブライブ!スーパースター!!は当初はリアルタイムで見ておらず、ライブに参加することになったので、なんとなしに見た。

ドハマりをした。

素晴らしい作品だと思う。だが、同時にあまり刺さらない人が多い作品でもある(身近の人間しか見ていないので、世間一般的にどうか?と言われると疑問は残る上に、シリーズの作品が同時に複数展開されているタイミングというのもあるが、それは一旦置いておく)。 

今回はその刺さらない人が多い理由は何なのかについても、考察していく。また、執筆者の主観が強く反映されているため、断定口調で進んでいくが、実際はそんなことないと思うので、異論反論はなしでお願いしたい。

 

まず、『ラブライブ!シリーズ』はこれでなくてはならない!というルール自体はたった一つであると考える。それは『スクールアイドル』を主題としていることである。

別に出てくるグループがμ'sでなくても良いし、主人公がスクールアイドルでなくても良いし、主人公が受動的でも良い。ただ主題がスクールアイドル。つまりは、『スクールアイドルプロジェクト』を満たしていれば、ラブライブ!になると考える。

つまり、ラブライブ!スーパースター!!自体は、スクールアイドル『Liella!』の物語であり、ラブライブ!シリーズであること自体は間違いない。

 

 

批判的な話の中に主人公の話がある。

代表的な登場人物が2名いる。

今までの作品と違い、『高』の字を冠さない『受動的』な主人公である澁谷かのん。

今までの作品の主人公と同じ他者を動かす『主体的』な登場人物である唐可可。

ここの二人の関係性を見るだけで過去作を知る人は「おっ」と興味を惹かれると思う。

だが、この設定は同時に澁谷かのんというキャラが『鼻につく』設定の一因となっていると考えられる。私はこの設定が受け入れられるかどうかでラブライブ!スーパースター!!を楽しめるかが変わってくると思う。

 

まず、先述したとおり、『ラブライブ!シリーズ』はこれでなくてはならない!というルール自体はたった一つ『スクールアイドル』を主題としていることである。つまり、ラブライブ!スーパースター!!自体は、スクールアイドル『Liella!』の物語であり、ラブライブ!シリーズであること自体は間違いないと思っており、ラブライブ!シリーズであることを満たしていないから、『鼻につく』という話などではないのは分かる。

 

では、主人公の魅力がないのか?

主人公の魅力についてだが、今までの主人公は全員主体的に動いてる。

A-RISEに憧れて。μ'sに憧れて。優木せつ菜に憧れて。

憧れたものは違くても、影響を受けて『衝動』に駆られて動いている。

では、澁谷かのんはどうなのか?

澁谷かのんは、歌声で唐可可に影響を与えている。そう澁谷かのんは影響を与える側であり、唐可可にこの人とスクールアイドルをやりたいという『衝動』を与えているキャラである。

つまり、最初から″何か″を持っている恵まれたキャラであり、共感性はかなり低いキャラである。今までの主人公も多かれ少なかれ持っているものはあるが、1話から主人公が持っているものを見せつけるというのはスーパースターほど強くはなかったと思う。

この共感性の低さが苦手と思われる一因の内一つだと思われる。

また、最初に私見を述べたように、澁谷かのんは、あくまで唐可可に強く誘われたことにより、スクールアイドルを始めた受動的な主人公であると言っていたが、少々誤解がある。

実は澁谷かのんもまた『衝動』に動かされている主体的な主人公である。

澁谷かのんと唐可可はお互いに影響を与えあい、お互いに『衝動』を与えているのだ。

1話のラスト、澁谷かのんはスクールアイドルになる決意をする。あれは、唐可可に影響を与えられて、決意をする。

実は決意をするタイミング、影響を受けて『衝動』に駆られるタイミングが1話の最初か最後かが違うだけである。

また、他のキャラと違う点を更にあげると、挫折するタイミングである。澁谷かのんが挫折したのは、ラブライブ!スーパースター!!本編以前であるが、本編以前に大きく挫折していたキャラはいなかった(と思う)。

今までの主人公とは違うが、何も違わない。

挫折を知り、衝動に駆られ、目標に向かって突き進む主人公。今までの主人公に負けない魅力的な主人公である。

それでも、澁谷かのんの動きとしては、周りのキャラクターに振り回されているイメージが強い。振り回されることから、始まっても最後は強い自分の意思を貫き通す。その結果、澁谷かのんはラブライブ!スーパースター!!の一期12話『Song for All』で覚醒して、二期へと続ていく。

他の主人公より分かりづらく、意思が弱く振り回されがちな主人公と思われがちだが、丁寧に読み説くとそんなことは一切ない。素敵な主人公である。だが、アニメでの設定上伝わりづらい構成になってしまっているため、分からない伝わらないという事態になっているのが、残念である(かと言って、他の主人公のように最初からガンガンいくようでは、個性が潰れてしまうため、今のままで良いと思ってはいる)。

私は澁谷かのんのキャラクターを掴めているか掴めていないのかで、ラブライブ!スーパースター!!が不人気になってしまっているのではないか?と考えている。

これを読んだ方はどう思うだろうか?

 

 

ラブライブ!スーパースター!!はどこまでいっても、キャッチコピーの『私を叶える物語』を元に動いている。ここで言う『私』とは一人称・アニメの構成を考えると澁谷かのんのことだと思える。

だが、実際の『私』というのは、澁谷かのんのことではなく、登場人物一人一人のことであり、アニメを視聴する我々一人一人を指していると思う。

分かりやすい例では、スクールアイドルをするという夢を叶える唐可可や澁谷かのんの力になりたいという夢を叶える嵐千砂都というような登場人物たち、またアニメを通して、『大好きなものに蓋をすることはない。がんばることに終わりなんてない』ということを伝えて、それぞれが勇気を持って、『私』を叶える物語。人生を歩んでいきましょうというメッセージを感じるアニメがラブライブ!スーパースター!!である。

 

私は狂おしいほどにこのアニメが大好きです。

その内個々の登場人物について、書くかも知れませんし、随時このブログは修正します。

以上

卒業について

pixivやTwitterで物語を書くことはやっていたものの、それは自身のことをキャラクターに代弁させているだけだった。ずっと、自身のことを自身の言葉として、何かしら形にしようと考えていたものの、形にすることをめんどくさがってやっていなかった。

そんな中、推してるアイドルのグループのメンバーが卒業すると聞いて、アカウントを取得して、こうして書き始めた。今まで一年くらい、ブログについてうだうだしていたが、今回の卒業の一報を聞いたら、20分くらいで書き始めてる辺り、どれだけ存在の大きいグループだったか。感じていただけると思う。(ブログ開設・書き始めは20分くらいだったが、最終的に2日かけて書き上げているから、少し語弊がある。)

 

さて、一番最初のブログのタイトルが、卒業について。と意味がわからないブログだが、前述の通り、アイドルの卒業についてである。

私が知ってるアイドルはかなり少ないが、卒業できないアイドルも少なからずいる。いきなり公式から、Twitterで『◯◯の脱退のお知らせ』みたいな形で、お知らせがあるパターンだ。お別れを言う暇もなく、Twitter等本人とやり取りできるものも全て消える。存在がなくなったかのようになる。そんなことがまぁまぁある。と思っている。

いきなり卒業でない話をしてしまったが、少なからず卒業できないアイドルがいる中、あくまで卒業という形で表面上は円満に終わることはかなりおめでたいことだと思う。アイドルという水物商売で最後のお別れの言葉を交わせることは幸せなことだと思う。

最終的に、何が言いたいかと言えば、表向きだけでも(アイドルの裏のことは推察できないこと。推察したにしても、オタクの妄想が多く交じっていることが多い印象だ)、円満に卒業できるアイドルは幸せだ。ということだ。

それを素直に一緒に祝福したいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だけど、それでも、自分の中でわだかまりが残っている。

自分の推したアイドルが、悩んで決めた選択。オタクなら後押しすべきだが、オタクだからこそ後押しできない自分がいる。

 

この相反する想いは、時間をかけて整理していくしかないのだと思う。幸いにもあと1ヶ月ある。それがほんの少しの救いだ。